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<長寿番組の条件>日本テレビ「笑ってこらえて」の“ダーツの旅”はいかにして生まれたか?

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<長寿番組の条件>日本テレビ「笑ってこらえて」の“ダーツの旅”はいかにして生まれたか?

<長寿番組の条件>日本テレビ「笑ってこらえて」の“ダーツの旅”はいかにして生まれたか? 「笑ってコラえて」(水曜・日本テレビ)の「ダーツの旅」は、放送スタート時の1996年から18年も続いてる超長寿の人気コーナーだ。 所ジョージさんが「日本地図に投げたダーツ」が当たった村や町に10日間から2週間滞在して、村人との交流を続けるコーナーだ。信じられないくらい面白い90歳の老人、取材と知ってキャキャ騒ぐ女子中学生集団、ウチの軍鶏が上手いと家に招待してくれるオバサン・・・。このコーナーの大成功の影響は絶大で、その後、他局でもあまたの「村人交流バラエティー」が生まれた。 ビデオカメラの超小型化・軽量化・低価格化で制作スタッフが直接取材・撮影出来、長期間の取材も可能になったことも大きな影響を与えていたであろう。 実は皆様に一つ告白しておきたいことがある。筆者(吉川圭三)はこの「偉大な長寿コーナー」の生みの親として名を残しているが、正確にはそうでないのである。確かにこのコーナーを「実現化」したのは筆者だが、実は色々な経緯があった。 これも「バラエティ史の一断面」だと思いここに記しておく。 ものの資料によると、始まりは関西で今も絶大な人気を誇る「探偵!ナイトスクープ」(1988〜現在・朝日放送)にいおて、越前屋俵太さんが「ダーツを投げ、刺さった地域に行く」というコーナーがあったそうである。 ただ当時、ハンディカメラが重かったとか、長期取材はタレントさんのスケジュール上無理だったのか、すぐ休止になってしまった。「探偵!ナイトスクープ」が関西ローカルの番組ということもあってか、筆者はそのコーナーの存在は知らなかった。 「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(1985〜1996・日本テレビ)のIVSテレビ制作の当時の社長だった長尾忠彦さん(現・会長)が筆者を訪ねて来て、一つの企画書を出してきた。表紙には地球儀があって、そこにダーツを投げる人がいた。つまり「世界ダーツ旅」をやろうというのだ。越前屋俵太の企画にインスパイアーされたのか?については今でもわからない。 「ん~。いい企画だ。でも地球は広すぎるし、ヌカに釘とでも言う感じ?」 これが筆者の感想だった。しかし。この企画書はしばらく筆者の机に眠り続けた。そんなある日変化が起きる。 当時、担当していた「どちら様も!!笑ってヨロシク」(1989〜1996・日本テレビ)が低迷し始めていた。スタジオに「看護婦100人」とか「東大生100人」とか「元警察官100人」とか集めて、アップルのコンピュータで質問を集計する・・・という人気バラエティだった。しかし「呼ぶ100人」にもバリエーションがなくなりはじめ、番組として経年劣化をしていたのだ。 編成部が「そろそろ番組の打ち切り」を告げに来る・・・そう感じた。その前に動かなければ一族郎党食いっぱぐれだ。筆者は部下の小澤龍太郎と企画書をでっち上げた。 題して「笑ってコラえて」。テーマはインタビューバラエティ。日本中の素人さんのインタビューを基にした番組だった。作った企画書には、10個くらいの企画が書いてあったが、正直でっち上げだった。その中に「あのコーナー」があった、というわけだ。そう、「ダーツを当てて村で取材する」というアノの企画が。 ただし、IVS版と違うのは、対象は「地球儀」ではなかった。あくまでも、日本地図。日本の町や村に行くというものだった。IVSの長尾社長に失礼ながらも電話で許可をもらった。筆者も長尾さんも、このコーナーがこんなにヒットするとは、当時思っていなかったのかもしれない。 編成部は首をひねりながらも「この枠で当てつづけたスタッフだから」と企画を通してくれた。でも筆者は、 タトラス ダウン タトラス アウトレット hetrego ダウン hetrego レディース ビームス バブアー duvetica ダウンジャケット ユナイテッドアローズ デュベティカ シェラデザイン マウンテンパーカー シェラデザイン ダウン ロッキー マウンテン フェザーベッド Lee デニム ジョンブル デニム
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